出世競争は双六、ゲーム感覚でやるに限る

出世とは地位や身分が偉くなることではなく「世に出ることである・・・」こういった人がいる。アサヒビール創業者の山本為三郎という人だ。世の中には出世に拘る人もいれば、下らないと考える人もいる。どう考えるかは個人の自由だが「世に出る」という意味に捉えれば出世にこだわることもあながち否定できない。

だが下手に出世に拘りすぎると失敗したときショックが大きい。ライバルに負けたからと仕事がレベルダウンするようでは組織にとっても当人にとってもマイナスだ。程ほどにしておく必要がある。

一番いいのはゲーム感覚で取り組むことだ。スポーツ競技をやっているつもりでフェアプレーで臨めば勝っても負けても「恨みっこなし」でいける。またこういう出世競争なら切磋琢磨できるから組織にとってもプラスに作用する。

終身雇用、年功序列の機能していた時代はどの企業も出世には一定のルールを設けて組織にマイナスにならないよう配慮をしていた。そもそも「年功序列」という言葉が組織にマイナスを及ぼさない出世ルールなのである。

何年間かを一定の業績で大過なく過ごせば一定の役職につける。その役職で年月をかけ実績を上げれば、またその上の役職へ・・・といったふうに、誰もが「どうすればどこまで出世できるか」がある程度は読めたのが年功序列の時代である。

ただ中には役職に強い拘りを持つ人間がいて様々な権謀術数(けんぼうじゅつすう)を弄して強引に出世を画策するからライバルも対抗上似たようなことを始める。

そこから役職を巡る見苦しい争いが生じる企業も少なくなかった。それが高じれば「お家騒動」となり企業にとっては大きな損失となる。安定した大企業ではそういう例がよく見られたものだが現在は実力主義の時代だから昔ほど出世競争は熾烈ではなくなっている。

だが人間は勝負とか競争が本質的には好きだ。オリンピックやワールドカップにも熱くなる。勝負の好きな人が人生の勝負として出世競争に参加することは決して悪いことではない。出世競争は双六のようにも思えるが面白いと思う人は大いにやればいい。ただしフェアプレーが原則だ。

それぞれの会社にある出世ルールに従ってフェアな競争をするのは端で見ていても決して悪い気分のものではない。頂上付近の役職を巡った争いになると泥仕合の様相を呈するが、それも人間ドラマの一齣(ひとこま)と考えれば結構楽しめる。

一方で中間管理職レベルになると今は逆に「下手に出世なんかしないほうがいい」という考え方の人も増えてきている。昔は「課長さん」「部長さん」はステータスだったが今は相場が下落した。責任だけ負わされるからだ。これは好ましい傾向といえる。もう役職にこだわる時代ではないのだ。

役職とは組織を運営するためのリーダーシステムであって本質的には名誉職のようなものだからだ。まして役職や地位を利用して威張ったり部下をいじめるようなのは論外である。ゆとり心をもって臨めば「出世してもよし、しなくてもよし」の気持ちになれる。もし出世競争をするならそういう気持ちでやってほしい。それならば会社勤めが楽しくなるし、いい仕事ができるようにもなる。

— posted by ラスター at 05:23 pm  

 

役に立たないことがどこまでできるか?

「いかに役に立たぬといっても、必ず何か一得はあるものだ」勝海舟の言葉である。海舟は明治維新の立役者の一人だが、名うての遊び人でもあった。この言葉には遊び心がのぞいている。遊びというのは、みんなが「遊び」と認めたことだけが遊びなのではない。一見つまらなく思えることにも遊べることがあるし、無駄なことや意味のないことにも、それなりの価値がある。遊び心とは、そういう見方のできる心なのである。

たとえば、危険な登山など興味のない人にとっては信じられない愚行に思えるかもしれない。だが、広い意味で「遊び」と考えれば納得がいく。遊びに理由はいらないのだ。何でも合理的に考えていくと、「無駄は省く」のが正しいと思えてくる。だが、無駄がなくなったら、進歩や成長、活力、楽しさからはどんどん離れていくだろう。

逆に、無駄の権化みたいなものを慈しみ遊んでいると、思いがけない恩恵を得られることがある。たとえば競走馬のハルウララの出現がそうだった。あの馬は一度も勝てず、フィーバーするまでに100敗以上していた。どこから見ても駄馬である。地方競馬だからよかったものの、中央競馬だったら、とっくの昔に消えていてもおかしくない。

その一度も勝てない馬が、妹馬、弟馬と対決するというだけで、「ハルウララ・チャレンジカップ」と銘打ったイベントが話題になった。

こういう発想は遊び心なくして出てこない。日本人もそういう遊びができるようになったのは喜ばしいことだ。
企業はいつも合理性が追求されている。だから何かで役に立たないことをやると排除されることが多い。「稼いでなんぼの世界だぞ!」といわれる。だが、そういう考え方に凝り固まっている企業はこれからジリ貧になっていく。大きな発展は期待できない企業なのだ。

また、企業経営者の中には「ムリ、ムダ、ムラをなくせ」と得々と語る人がいるが、これも程度問題だ。経営者からこういう言葉が出るようになったら、守りに入ったと見て間違いない。守りに入った企業は「あと、どれだけ持ちこたえられるか」だけの話である。

ノーベル賞を受賞したエサキダイオード(トンネルダイオード)の発明者江崎玲於奈(れおな)さんは、まだ東京通信工業を名乗っていた草創期のソニーに在籍し、そこで偉業を成し遂げた。当時のソニーのことを江崎さんは「組織された混沌」と評している。一応は会社だから組織されているが、「技術者は自由奔放に仕事を進め、社内は混沌としていた」というのだ。これはソニーにとって当たり前たった。なぜならソニーという会社の創立の目的は次のようなものだったからだ。

「会社創立ノ目的 一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度二発揮セシムベキ自由豁達(かつたつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」

この文言は「技術者は大いに遊んでください」と、いっているようなものだ。遊び心をもった技術者が大勢集まってきて、思い切り遊んだ結果生まれたのが、数々の画期的な製品だったのだ。あれだけの製品を出しだのだから、優秀な技術者の手で、次々製品が生まれたと思うのは間違いだ。まったく役立たずのガラクタの山の中に、いくつかの役立つ製品があったにすぎない。

それでも「ソニー」になれたのだ。ソニーの成功は「愉快なる理想工場の建設」にあった。近年のソニーがパッとしないのは、大きくなりすぎて草早創期の遊び心の精神が影を潜め、普通の会社になってしまったからだろう。個人も同じである。会社の役に立だない、自分の役にも立たない何かに、熱っぽく取り組む姿勢をもつことが大切である。どんなに忙しくてもだ。「そんなムダなことを・・・」と思う人は、すでに守りの姿勢に入っている。守りに入った人に、もう上がり目はない。

— posted by ラスター at 05:21 pm  

 

仕事は男の中身を作り、遊びは男の行間を広くする

面白いアンケート調査結果がある。人気女性誌の編集長に「看板モデルの条件とは何か」と聞いたところ、色々な答えの中に一つ共通項があった。それは「私生活こそが重要」という答えだった。圧倒的に外見の美しさに目がいくモデルの仕事も容姿だけでなく私生活という日に見えない要素が大きく関わっている。豊かで幸せな人生を送っていると容姿の向こうにそれが透けて見える。

容姿の奥にある人間的魅力が看板モデルには必要らしい。しかし人間的魅力が大切なのはモデルに限ったことではない。男だって仕事ができるだけで十分とはいえない。言葉で簡単に言い表せないような魅力的な部分をもっている人間でないと決して良い仕事は出来ないものだ。

「四十歳を過ぎたら男は自分の顔に責任をもて」とよくいわれる。だがこの年齢を過ぎた多くの男性は鏡で自分の顔を眺め「やばいなあ」と思うのではないだろうか。自分で見る限り少しも責任がもてるような立派な顔をしていないと感じられないか?

だがこの点は心配することはない。顔というのは自分で見るのと他人が見るのとでは印象がかなり違うからだ。何かに没頭している時は、みんないい顔をしているものだ。自分で鏡を見るときとは違っているのだ。ただ逆に人を憎んだり嫉妬したり良くない心埋状態の時は、その表情も必ず顔に出る。普通の人は中々気づかないが観察力の優れた人、修羅場を経験したような人はすぐにそれを見抜く。

誰でも年齢相応の「いい顔」になりたいと思っているだろう。しかし中々思い通りにはならない。そこで勧めたいのは「大いに遊んでみる」ことだ。ここで遊ぶというのは何も「飲む、打つ、買う」のような遊びだけではない。人生のあらゆる営みを遊び心をもって臨むのがいいということだ。

もちろん「飲む、打つ、買う」でもいい。若いときからこの三つの遊びに徹底して励んできた人を知っているが、彼は仕事も人並み以上にできるし、中々の人格者でもある。そして味のある「いい顔」をしている。ところがその人から遊びの中身の話を聞くと信じられないほど下らない低俗もいいところ。軽蔑したくなるような内容なのである。今目の前に居るその人の言動とどうしても一致しない。だがその人は確信を持ってこう言うのだ。

「私は遊びから多くのことを学んだ。もし遊んでいなかったら、今の私はない」

若者に人気の蛯原友里さんというモデルがいる。際立った美形ではないが他のモデルには無いそこはかとない魅力がある。若い女の子達は彼女の発散する魅力を敏感に感じ取っているのだろう。私も彼女に好感をもった。そして思ったのが「この子はどんな育ち方をしているのかな?」ということだった。まもなくその一端がわかった。彼女がインタビューでこう答えていたのを聞いたからだ。

「これからお父さん、お母さんに恩返しをしたいと思っています。だって私をここまで育ててくれた親なんですから、恩返しをするのは子として当たり前のことでしょう?」

今時の女の子が言うセリフではない。こういうことがスラスラ言える育ち方をしたことが他のモデルと一味違う好ましい個性を感じさせ、若い女の子達にウケている理由なのだろう。見えない私生活が容姿や人格形成に関わることは男女とも変わらないが、やはり男女で差があるように思う。男性の場合はいくら低俗な遊びをしてきても、それらをみんな栄養にして「いい顔」になれる。だが女性の場合はどうも男のようにはいかないようだ。

このことは女性誌の編集長の見方と奇妙に合致する。彼らが言う「看板モデルは私生活が重要」ということは、私生活が荒れてくれば、それが透けて見えてしまうことだ。そうなっては女性読者対象のモデルには適さなくなるからもう使えない。だが男は違うと思う。どんなに低俗な遊びを繰り返してきても、どんな醜い修羅場を経験しても、そこから何かを学ぶ姿勢さえ持っていれば最終的には男の成長の味方をするのだ。

男の遊ぶ才能とは遊びから何かを学ぶ才能のことと言っていいだろう。その代わりただ遊ぶだけでそこから何も学べないボンクラ男はどんな女性からも軽蔑されるような情けない男になって行く。だから男はいい顔になりたかったらもっと積極的に遊んでみること。そして遊びから学ぶことだ。

作家の永井荷風という人は一生女に明け暮れた遊び人だ。それも晩年は娼婦ばかりを相手にした。公序良俗派人間からは指弾されて当然の行状だが忘れてならないのは彼が不朽の文学作品を数多く遣したことだ。彼は遊びに遊んだが仕事もちゃんとやった。その作品は人間の哀しさ、美しさが行間に惨み出ているような作品ばかりである。彼は行間の作家であり行間の美を彼は遊びから学んだのだ。文学に限らない。男にとって遊びとは人生の行間を学ぶことなのだ。

— posted by ラスター at 05:17 pm  

 

遺伝子操作はここまで来た!遺伝子を自由に組み込んだデザイナーチャイルド

もし遺伝子情報に私たちが自由にアプローチできれば21世紀の人類はどのような姿をしているのでしょうか?その鍵を握るのが遺伝子を人の手によって簡単にに変える技術である遺伝子操作です。アメリカの分子生物学者シルバー博士は遺伝子を自由自在に組み替えたデザイナーチャイルドの登場を予測しています。

モデルとして紹介される一組の夫婦。体外受精させた自分たちの胚をアリスと名付け、その遺伝子情報を全て呼び出すことができます。その情報を基に好ましい遺伝子を自由に組み込んだデザイナーチャイルドを作り上げます。
AIの遺伝子情報はコンピューターと結ばれひとつの遺伝子で起こる重い病気の項目が開かれます。もし死に至る病や重度の病気を引き起こす遺伝子変異があれば直ちに正常なものに修復できます。

次は複数の遺伝子が環境的な要因によって病気を引き起こすリスクの度合いを示した項目です。このリスクを低くするための遺伝子組み換えも可能です。この衝撃的な未来を予測したジョシュア・シルバー博士はプリンストン大学で分子生物学の最先端を研究しています。

デザイナーチャイルドの最終段階の仕上げに身長や体重、髪の毛や肌の色を始め運動能力や芸術の才能に関わる好ましい遺伝子を導入します。すると画面には生まれてくる子供が16歳になった時の姿が映し出されます。
こうした遺伝子操作の後、胚は母親の子宮に戻されます。スポーツ選手、家科学者、音楽家画家など特殊な能力に恵まれた人類が遺伝子操作によって登場することをシルバー博士は予測しています。

未来人類に大きな影響を持つ遺伝子の人為的な操作。人類はそのテクノロジーを獲得したのです。遺伝子の解読を進めてきた人類は遺伝子DNAを操作する技術まで手に入れました。

ギリシャ神話の中に登場するパンドラの箱の物語。それは神から地上に遣わされた最初の女性パンドラが決して開いてはいけないと言われた箱を開けてしまったためこの世にありとあらゆる災いが飛び出してしまったというものです。

遺伝子操作が現代のパンドラの箱になるのかどうか見ていきたいと思います。つまり私たちの子供の世代や未来にどんな影響を及ぼそうとしているのか、またそのことに対し遺伝子自身が何を語ろうとしているのかを探っていきます。

まず遺伝子操作とは一体どんな技術なのでしょうか。今、遺伝子操作技術な人の手で自由自在にDNAを作り出すことを可能にしています。アメリカのベンチャー企業では病気の遺伝子を正常なものと入れ替える全く新しい治療法を研究しています。

遺伝子の変異した部分を正常な配列に対応するようにDNAの化学物質ATGCを機械で繋ぎ合わせて並べていきます。治療のために作られた63文字のATCGをカプセル化して細胞の核へ送り込みます。細胞の中で63文字のAGTCは変異した部分と結びつきます。

すると細胞の中にある修復タンパクが働き変異していた部分を正常に直してくれます。こうしたDNAをあるものから切り取ったり別のものに組み替えたりすることを遺伝子操作と呼びます。地球上に生きる全ての生物はATGCという文字で書かれた共通のDNAを持っているので、この遺伝子操作はあらゆる生物の間で可能なのです。

例えば日持ちがするように遺伝子操作されたトマトがあります。まずトマトの腐敗を抑える遺伝子を取り出します。それを全く別の生物である大腸菌に組み込んで増やします。増やした遺伝子を再びトマトの細胞に組み込むことによって新鮮に保つようにします。

こうした技術を使えば種という生物の壁を越えて自然界には存在しない全く新しい生き物を作ることも可能になります。遺伝子操作によって既に数多くの農産物や医薬品が作られています。日本でもこれまでに二種類以上の遺伝子組み換え食品、そして10種類以上の薬が認可されています。

しかしこの遺伝子操作技術が将来何をもたらすのか。全てを予測することは誰にもできないのです。科学が生み出した遺伝子操作という全く新しい技術を私たちはどのように考えたら良いのでしょうか。

作家のAさんは30年もの間原因不明の病と闘いながら生命科学について執筆を続けてきました。この一年病気は快方に向かっています。Aさんは植物学者だった父親の影響から大学で生物学を学びました。

その後アメリカのコロンビア大学に留学して生命科学の最先端に触れました。結婚出産を経て再び研究生活を始めますが三十歳を過ぎて身体中の痛みやめまいなどの症状に襲われ研究生活を断念。四年前からさらに病状が悪化し一時は安楽死も考えたと言います。

こうした体験から生命科学と遺伝子技術について考え続けてきました。ではのコロンビアに行った時にはあのDNAのATGCのどれか一つを入れ替えたら突然変異が起こるのかっていう研究をしていました。

例えばTのところを入れ替えて一回分裂させると突然変異が出てくるとかこの場合は2回分裂させると出てくるとか本当に計算
通りに出てくるんです。これはもう実用に近いという感じを持ちました。

研究はどんどん進めていいと思っています。だけどその結果出てきた技術というものに人間の欲が絡んできたときに問題が起こるので、そこだけは気をつけなければいけないと思ってます。今後研究が進めば私たちは自分の遺伝子についてどこまで知ることができるのでしょうか・・・

— posted by ラスター at 05:16 pm  

 

滅私奉公は会社にとって迷惑

端から見ていて「よくあんなつまらないことをコツコツ飽きずにやってられるなぁ」と感心させられる人がいる。だが、そういう人は、決して「つまらない」と思いながらやっているわけではない。人間は自分が心底「イヤだな」と思うことは決してやらない。無理にやらされたとしても継続できない。率先してやっている人、ずっとそのことに取り組める人は、必ず何か楽しみを見出しているものなのだ。

外食チェーンのオーナー経営者から、以下のような話を聞いたことがある。彼は地方の高校を卒業するとすぐに上京、有名レストランに住み込んでコック修業を始めた。だが、来る日も来る日も皿洗いばかり。そんな状態が半年も続いた。同期で入った仲間は、この時点で大半が辞めていった。残った連中も「いつになったら料理をやらせてもらえるのか」とブツブツ文句をいいながら働いていた。嬉々として皿洗いに精を出していたのは彼一人だったという。

普通、こういうケースで彼のようなタイプは、まじめな勤務ぶりが買われ、大抜擢されるといった展開になるものだが、このレストランはそんなに甘くなかった。黙っていても外国で修業したセミプロ級が雇われたがるような店だったから、経験ゼロの皿洗いを一人前のコックに育てる気など、はじめからなかったのである。

彼は結局、皿洗いを1年半、その後は別の下働きを1年半やらされて辞めた。都合3年間勤めて半人前の料理人にもなれなかった。その後、彼はどうしたか。貯めたお金で小さな洋食屋を開業した。これが当たって店を次々と増やしていき、今では60数店舗のレストランチェーンを統括する経営者なのだ。

「最初は私も皿洗いがイヤでした。でも、すぐ気づいたんです。仕事だと思うからイヤなんだと。それで親戚の叔父さんとか、ごく親しい人から頼まれて手伝っていると思うことにしました。そんなふうに頭を切り替えたら、少しもイヤじゃなくなった。飯は食わせてくれるし、お小遣いももらえるし・・・」

彼は皿洗いをしているとき「10分間で何枚洗えるか」といったゲーム感覚をいっぱい取り入れていたという。また、別の下働きに移ったときは、「せっかくレストランにいるのだから・・・」とシステムをつぶさに観察して日記風に記録していった。料理の腕こそ磨けなかったが、レストラン経営のツボを会得した点で、3年間の下働きは決して無駄にならなかったのだ。私はこれを彼の遊び心のおかげと見る。

「仕事と遊びをちゃんと分けろ」という人がよくいるが、遊び心は仕事にも必要なことなのだ。特に好きになれない仕事、単調な仕事をするときは、楽しめるように工夫する遊び心をもつといい。ストで電車が止まると、線路を歩いてでも会社に出社する。病気になると這いずってでも会社へ行こうとする。かつてサラリーマンはこういう勤勉ぶりで、会社への忠誠心を表し、会社もそれを「よし」とした。

滅私奉公的な態度が評価されていたのだ。この考え方の背景には「会社のためになることは自分のためにもなる」という労使の暗黙の了解があった。終身雇用と年功序列が機能していた時代は、それでよかった。だが、リストラが当たり前の現在は、この考え方はもう通用しない。いくら滅私奉公したってリストラされるときはされるのだ。

そうなってから恨みがましいことをいっても始まらない。むしろ、今、滅私奉公的な考えの人間を会社は迷惑に思うだろう。なぜなら、そういう人間に限って会社に頼り切り、自分から進んで局面を切り開こうとしないからだ。これからは滅私奉公の考えは捨てて、自分のために会社を伸ばすことを考えよう。その余地がないような会社なら、こっちから三行半を突きつけてやればいい。

— posted by ラスター at 05:14 pm