役に立たないことがどこまでできるか?

「いかに役に立たぬといっても、必ず何か一得はあるものだ」勝海舟の言葉である。海舟は明治維新の立役者の一人だが、名うての遊び人でもあった。この言葉には遊び心がのぞいている。遊びというのは、みんなが「遊び」と認めたことだけが遊びなのではない。一見つまらなく思えることにも遊べることがあるし、無駄なことや意味のないことにも、それなりの価値がある。遊び心とは、そういう見方のできる心なのである。

たとえば、危険な登山など興味のない人にとっては信じられない愚行に思えるかもしれない。だが、広い意味で「遊び」と考えれば納得がいく。遊びに理由はいらないのだ。何でも合理的に考えていくと、「無駄は省く」のが正しいと思えてくる。だが、無駄がなくなったら、進歩や成長、活力、楽しさからはどんどん離れていくだろう。

逆に、無駄の権化みたいなものを慈しみ遊んでいると、思いがけない恩恵を得られることがある。たとえば競走馬のハルウララの出現がそうだった。あの馬は一度も勝てず、フィーバーするまでに100敗以上していた。どこから見ても駄馬である。地方競馬だからよかったものの、中央競馬だったら、とっくの昔に消えていてもおかしくない。

その一度も勝てない馬が、妹馬、弟馬と対決するというだけで、「ハルウララ・チャレンジカップ」と銘打ったイベントが話題になった。

こういう発想は遊び心なくして出てこない。日本人もそういう遊びができるようになったのは喜ばしいことだ。
企業はいつも合理性が追求されている。だから何かで役に立たないことをやると排除されることが多い。「稼いでなんぼの世界だぞ!」といわれる。だが、そういう考え方に凝り固まっている企業はこれからジリ貧になっていく。大きな発展は期待できない企業なのだ。

また、企業経営者の中には「ムリ、ムダ、ムラをなくせ」と得々と語る人がいるが、これも程度問題だ。経営者からこういう言葉が出るようになったら、守りに入ったと見て間違いない。守りに入った企業は「あと、どれだけ持ちこたえられるか」だけの話である。

ノーベル賞を受賞したエサキダイオード(トンネルダイオード)の発明者江崎玲於奈(れおな)さんは、まだ東京通信工業を名乗っていた草創期のソニーに在籍し、そこで偉業を成し遂げた。当時のソニーのことを江崎さんは「組織された混沌」と評している。一応は会社だから組織されているが、「技術者は自由奔放に仕事を進め、社内は混沌としていた」というのだ。これはソニーにとって当たり前たった。なぜならソニーという会社の創立の目的は次のようなものだったからだ。

「会社創立ノ目的 一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度二発揮セシムベキ自由豁達(かつたつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」

この文言は「技術者は大いに遊んでください」と、いっているようなものだ。遊び心をもった技術者が大勢集まってきて、思い切り遊んだ結果生まれたのが、数々の画期的な製品だったのだ。あれだけの製品を出しだのだから、優秀な技術者の手で、次々製品が生まれたと思うのは間違いだ。まったく役立たずのガラクタの山の中に、いくつかの役立つ製品があったにすぎない。

それでも「ソニー」になれたのだ。ソニーの成功は「愉快なる理想工場の建設」にあった。近年のソニーがパッとしないのは、大きくなりすぎて草早創期の遊び心の精神が影を潜め、普通の会社になってしまったからだろう。個人も同じである。会社の役に立だない、自分の役にも立たない何かに、熱っぽく取り組む姿勢をもつことが大切である。どんなに忙しくてもだ。「そんなムダなことを・・・」と思う人は、すでに守りの姿勢に入っている。守りに入った人に、もう上がり目はない。

— posted by ラスター at 05:21 pm