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医療保険は生涯払っていける保険料にする

若いときは貯蓄が少ないので入院した途端に貯蓄が乏しくなりかねません。また、入院中は弱気になりがちです。そこに入院費の心配も加わります。医療保険で多少なりとも給付金が受け取れれば、保険をかけておいてよかったと思うでしょう。

だからシングルでも医療保険はかけておきましょう。医療保険の一般的なタイプは病気や怪我で入院した場合に1日あたり数千円の「給付金」が出ます。手術を伴う場合は数万円の「手術給付金」が別途受け取れるというのが一般的な形です。

医療保障を得るかけ方は、大きく分けて2つあります。1.「単独」の保険でかける(医療保障だけの確保のため)2.死亡保険に「特約」としてつける(死亡保障も医療保障も両方確保)

皆さんにお勧めするのは「単独」の医療保険への加入です。テレビのCMでよく見るタイプはこちらです。死亡保険の方は必要になったら別途加入することにします。シングル時代は死亡保障は必要ありませんし、60代、70代など人生の後半でも死亡保障が必要なくなる人がほとんどです。

死亡保険に「医療特約」の形でつけると死亡保障が必要ないと思っても医療特約だけを続けられません。単独保険で死亡保障と医療保障を切り離しておけば、それぞれ必要な時に柔軟に見直すことができます。

では、どれくらいかけておけばよいか、ということです。医療保険は各社から色々発売されていますが、大きく分けると次の要素で決まります。

1.入院1日あたりの給付金の額

入院1日あたり3,000円くらいから加入可能ですが、各社のパンフレッドでは日額1万円が多くなってきました。

2.いつから最長何日分まで入院給付金が受け取れるか

少し前までは入院5日目、あるいは8日目から対象となり、ひとつの病気による入院で120日まで受け取れるのが一般的な加入の仕方でした。最近は入院の日数自体が短期化する傾向があります。そこで出てきたのが1日目から出るタイプです。中には日帰り入院でも給付金が受け取れる保険も出てきています。

また、長生きする時代が意識されてきたため、保障が一生続く終身タイプが主流になってきています。終身タイプなら老後の入院時でも安心です。保険会社としては終身タイプは保険料を高くせざるをえませんが、最長日数を60日や45日と短くした保険を登場させました。これにより日額1万円の医療保険でも払える保険料になっています。

では、具体的にどれくらいかけておけばよいのかという点です。入院費はそもそも貯蓄から賄えるようにしておくのが基本です。高
額療養費制度もあるので、給付金で入院費の一部をカバーできればよいと考えたほうがいいでしょう。

大事なのは、どれだけかけるかよりも保険料が負担にならない範囲でかけるということです。家族ができても、老後になっても、払っていける保険料に抑えることをお勧めします。

そして、お勧めは祝い金などがついていないシンプルなタイプです。祝い金タイプは祝い金支払いのための積立て部分が保険料に上乗せされているので得をするわけではないのです。

ちなみに1万円の給付金が出る終身タイプの保険では、25歳の女性が加入すると3,310円です。5,000円の保障なら保険料もその半分です。貯蓄が中々できないなら、保障を抑えて、その分を積立てに回しましょう。

— posted by ラスター at 01:49 pm  

京都は新選組が有名だったけどこの歴史ってどんなの?

新選組は幕末時代に京都に存在した組織の名称です。新選組は元々、当時の将軍である徳川家茂を警護する目的で集められた浪士の組織でした。

この頃は浪士組という名称で、現在私達がイメージする新選組とはまったく別な組織と言ってもいい存在です。浪士組誕生の翌年、京都に居た浪士組は江戸に戻るかどうかで分裂し、江戸に戻らず京都で将軍警護を続けるべきだと主張したのが新選組の隊員としても有名な近藤勇や土方歳三です。

こうして浪士組の1部が京都に残ることになり壬生浪士組と名乗ることになります。その後、京都での警備活動などが高く評価され新選組という名称が与えられ、現在でも高い人気を集める新選組が誕生した形です。

新選組は1864年、有名な池田屋事件で尊王攘夷派の志士を殺害、捕縛し一躍有名な存在になります。尊王攘夷派の志士達にとっては恐ろしい存在でしたが逆の立場の朝廷や幕府からすれば任務に忠実な精鋭部隊といった存在で、その影響力を強めていきます。

隊員の数も徐々に増えていき最終的には200人を超える大所帯だったと言われています。しかし1867年に徳川慶喜が大政奉還を実行すると風向きは大きく変わります。

新選組は旧幕府軍とともに戊辰戦争に参戦、新政府軍と戦いますが敗北の連続で江戸へと撤退、その後も敗戦を繰り返しながら北へと移動しながら無謀な戦いを繰り広げます。

200人以上いた隊員は不利を悟って離脱していき、やがては現在の北海道にまで追い込まれます。土方歳三が戦死し、補給もままならない状態で物資も底を付いて新選組は五稜郭で新政府軍に降伏し完全に消滅します。

日本という国が大きく変わる時代で翻弄された存在とも言えるでしょうか。明治時代の頃は新政府軍の敵として悪役的存在として語られることがほとんどだった新選組ですが、現在では個性的な隊員達が人気なこともあり、その評価は変わっています。

京都を中心に活動し、今でも高い人気を誇る新選組にまつわる史跡や名所はいくつかあります。

光縁寺・旧前川邸

光縁寺は四条大宮駅のほど近く、綾小路通に面しています。当時、新選組もこの光縁寺をよく利用しており、今でも敷地内には新選組の総長である山南敬助のお墓をはじめ多くの隊士のお墓があります。

その他にも新選組が使ったとされる馬小屋が残っていたり、山南敬助家の家紋と寺紋が同じであったりとなにかと深い縁を感じさせるお寺です。

供養料として100円を納めれば見学できますので新選組ファンなら1度は見ておきたい名所です。アクセスも良いので京都旅行の際には気軽に行けるのも魅力です。

また、光縁寺のすぐ近くには新選組が八木邸の後に屯所として使っていた旧前川邸もあり、土日の10時から17時までの間、邸内の一部を限定で公開しています。多くの隊士がこの旧前川邸で生活をしており、当時の雰囲気を感じることができます。

壬生寺

新選組が訓練をするために使っていたお寺で、新選組の前に使われていた名称である壬生浪士組と同じ壬生という言葉が使われています。

境内には壬生塚と呼ばれるお墓があり、ここには芹沢鴨を始めとした新選組隊士のお墓があります。8時から17時まで時間帯で境内に入ることができますが壬生塚は8時30分から16時30分までの時間になっているので注意してください。

さらに壬生塚を見るためには100円の拝観料が必要です。壬生塚には近藤局長の像も設置され、広い境内は新選組が訓練に励んでいた様子を思い伺わせます。

池田屋事件跡地

新選組といえば池田屋事件ですが、その跡地が中京区三条通にあります。現在は居酒屋さんとして池田屋の名称は残っており、その店前に石碑が設置されています。

池田屋事件は日本の形が大きく変わる激動の時代の始まりを告げる象徴的な事件ですし、新選組ファンでなくても見ておきたい史跡でしょう。この場所で歴史に残る事件が起きたと考えると感慨深いものがあります。

— posted by ラスター at 04:26 pm