「雇われない生き方」ができるか?

「すまじきものは宮仕えだよ」日本経済が高度成長していた頃のサラリーマンは、居酒屋などでこういって嘆いたものだ。だが、この嘆き節を額面通り受け取る必要はなかった。それは会社に雇われているという安心感の表明でもあったからだ。

その証拠に、嘆いて会社を辞めていく人間は滅多にいなかった。だが、バブル崩壊以後は様相がずいぶん変わった。今、宮仕えを嘆く声は少ない。しかし、一生懸命に宮仕えしたところで、リストラされない保証はない。では、どうしたらいいか。会社にいながら「雇われない生き方」をしてみることだ。そうすれば、リストラに怯えない新しい働き方が見えてくるはず。そんな生き方ができるか疑問に思う人もいるだろうが、その気になれば少しも難しいことではない。

やり方は二つある。一つは会社にいながら、起業家になったつもりで振る舞ってみることである。仕事の中身は今のままでいい。そのような職種、業態で起業したと思って取り組んでみるのだ。

たとえば、あなたが営業部の言貝だったとする。今までだったら、一社員として自分に課せられた役割だけをこなせばOKだが、起業となればそうはいかない。営業部全体の発展を頭に入れて、その中で自分自身の仕事をすることになる。

また、自分以外のことで「こうあるべきだ」と思われることは、進んで上司に意見を具申して改めさせる。常に経営的立場から全体を見通した仕事をしなければならない。それでも、自分で経営していると思えば楽しくやれるはずである。

「そんなことまで給料のうちに入ってない」などと考えるようではダメだ。実際に将来独立しようと思っている人間は、そういう視点で会社の仕事に取り組んでいる。給料をもらいながら予行演習をしているのだ。

もう一つは、起業家でなくフリーランス(個人事業家)として振る舞ってみることだ。会社がフリーランスに頼るのは助っ人が必要なときである。ある業務部分が弱体だが諸々の事情から正社員を増やすのはちょっと、などというとき、弱い部分だけを補おうとする。そういう立場に自分を置いてみるのだ。

この場合は役割がはっきりしている。営業であれば「売り上げをここまで伸ばしたい」といった具体的な目標がある。そういう仮説を立てて、自分が助っ人になったつもりで働いてみるのだ。この場合は全体を見る必要はなく、ただひたすら自分の職分の仕事で実績を上げればいい。

起業家もフリーランスも、会社に雇われない生き方をしている人たちだ。会社にいながらそれをやるのはバーチャル(仮想的)でしかないが、リアリティをもって臨めば、本物と変わらない気持ちになれるし、楽しさとやる気が出てくる。

人間には不思議な習性があって、他人から「やりなさい」といわれてすることは、あまり気が進まない。やっても楽しくない。だが、自分から「やろう」と思って始めると、同じことでも意気込みが違ってきて楽しくなる。バーチャル起業家になるメリットはここにある。

また、人は誰かから期待されてすることには自ずと力が入る。「君だけが頼りだ」といわれれば、つらいことでもがんばれる。バーチャルでフリーランスになるメリットは、自己の活性化にも大いに役立つのだ。何より仕事が面白くなる。しかし、そうはいっても「雇われている身」という基本は変わらない。

そのことを考えると、いくらがんばっても給料や出世といった見返りがなければ「徒労だよ」という話になりかねない。最大の問題はここにあるといっていいだろう。

だが、決して徒労になんかならない。第一にそれだけ社内で積極的に振る舞える人間になれば、リストラ対象からは外れるに決まっている。会社はいつの時代も役に立つ人材は残そうとするからだ。

しかし、中にはボンクラ経営者もいないわけではないから、一人社内でがんばっても結果は「徒労」ということも全然ないとはいえない。だが、今の時代の急激な変化を考えれば、それでも会社にいて「雇われない生き方」を試してみることは、将来の自分にとって計り知れないメリットを生むのではないか。

なぜなら近い将来、日本の雇用形態は「会社に雇われない生き方」の人が主流を占めるようになるからだ。アメリカでは雇われない生き方を「フリーエージェント」と呼んでいる。この言葉の名付け親になったアメリカのジャーナリスト、ダニエル・ピンクによれば、フリーエージェントは起業家、フリーランス、臨時社員の三種類に分かれる。

日本でも若い起業家が増え、派遣による臨時社員も急増している。フリーランスはそう多くないが、すでに日本もフリーエージェント社会に突入している。正社員でも、いつリストラされるか、いつ会社が倒産するかわからない現実を考えれば、会社にいながらフリーエージェントの予行演習ができるチャンスを逸するのは「もったいない」ことではないだろうか。

— posted by ラスター at 05:26 pm  

 

会社は自分の夢を追う格好の場所だ

起業家やデイトレーダーなど、雇われない生き方を志す若者が増える一方で、フリーター、ニートといった生き方をしている若者も多数出現している。こうした若者の就業変化の背景には、景気の低迷による就職戦線の冷え込みがあるが、「結果オーライだったな」という感想をもっている。

学校を卒業した若者は一人前の社会人だが、社会人になったら就職しなければならないという考え方は狭い了見だったからだ。何も会社に就職せずとも、いろいろな生き方をしてかまわない。不況による雇用状況の悪化が、それを促した格好になった。その結果、若者の間でサラリーマンは以前ほど憧れの職種ではなくなった。

だが、一方で私は、サラリーマンという職業は「自分の夢を追う」のに最高の居場所なのではないかという気もしている。考えてもみてほしい。自分で会社を立ち上げるには、かなりの資金が必要になる。しかも成功確率は低い。規制の撤廃で1円の資本金でも会社は設立できるが、経営そのものにはお金がかかる。3年後、5年後に生き残っている会社はごくごく少数にとどまる。

そのこと自体は問題ではないが、何も苦労して自分でやらなくても、自分の夢が叶いそうな会社を見つけて、そこで実現したっていいわけだ。既存の会社には「資金」「看板(信用力)」「設備」という個人とはケ夕違いの豊富な経営資源がある。

会社に勤めれば、それが全部利用できるのだ。今は会社勤めをしても、生活のために給料をもらえば「よし」とする時代ではない。会社は自分の夢を追う場所と考えてみるのも悪くないと思う。今の会社は昔と違って社員の自由度が増しているから、その気になって行動すれば十分に可能である。

もう一つ、私か勧めたいのは、仮に独立して起業を考えている人も、一度は会社に入って自分の能力を試してみるべきだということだ。最近は学校を卒業するといきなり起業する若い人もいるが、組織のルールやビジネスの常識を身につけるためにも、何年か会社勤めはやってみたほうがいい。自分自身に実力がつくからだ。

起業そのものは昔に比べたら格段にしやすくなっているが、前述したように起業=成功ではない。むしろ失敗する人のほうが多いのは経験不足だからだ。実力が足りないのにいきなりチャレンジするのは蛮勇(ばんゆう)で、決してホメられたことではない。

事業を始めると、つきあう相手はほとんど会社である。ならば、会社とはどういうものか知っておいたほうが絶対に有利なはずだ。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」。そのためには外からだけでなく、内に入って見るのが一番なのである。

それも半年や1年では中途半端だ。「石の上にも三年」で、どんな会社であれ最低3年間がんばってみることだ。そうすれば企業や組織の仕組みやルールがわかるようになる。そんな勉強をさせてもらって、給料をもらえるのだから、これほどありかたい存在はない。問題はイヤな仕事で3年もがんばれるかだ。

こういうとき、多くの人がいうのは「目標を作れ」ということだが、遊び心をもって取り組むのがいいと思う。そのほうが自分の能力をよく発揮できるからだ。サラリーマンからプロ棋士になった瀬川晶司さんという人がいる。瀬川さんは子供の頃から将棋が好きでプロ棋士を目指していた。

しかし年齢制限の26歳までにプロ試験に合格できなかった。プロ棋士をあきらめてサラリーマンになったわけだ。だが、趣味で将棋を指すようになったら急に強くなり、アマvsプロ対決で輝かしい実績を上げるようになった。その実績が認められプロヘの道が開かれたのだ。その彼がこんな述懐をしている。

「年齢制限が近づいてくると、すごいプレッシャーを感じて消極的な戦いしかできなくなった。だが、あきらめてアマで指すようになったら、将棋が楽しくなった。楽しく指していたら、プロにもどんどん勝てるようになった」

遊び心というのは人をリラックスさせる。リラックスした状態は能力を最高度に引き出す。会社を自分の夢追い場と心得て、楽しく仕事をすればきっとよい結果が得られる。会社の経営資源を活用できるとしたら、こんな恵まれた居場所はないといってもいい。

会社の事業内容と自分のしたいことが一致しない人は、予行演習の場と考えていろいろ試してみればいい。その場合も遊び心をもって楽しく取り組むことが肝心だ。そうすればどんな仕事もきっとよい経験になるはず。今必要なのは「サラリーマンは雇われる身」という既存の会社観を変えることだ。

文学の世界には批評について「他人の作品をダシに己の夢を語ることだ」という有名な言葉がある。これになぞらえれば、「サラリーマンとは、会社という存在をダシにして、自分の夢を追う人のこと」といえるのではないか。試しに会社で偉くなった人間に訊いてみるといい。きっと「その通りだ」というはずだ。

— posted by ラスター at 05:25 pm  

 

出世競争は双六、ゲーム感覚でやるに限る

出世とは地位や身分が偉くなることではなく「世に出ることである・・・」こういった人がいる。アサヒビール創業者の山本為三郎という人だ。世の中には出世に拘る人もいれば、下らないと考える人もいる。どう考えるかは個人の自由だが「世に出る」という意味に捉えれば出世にこだわることもあながち否定できない。

だが下手に出世に拘りすぎると失敗したときショックが大きい。ライバルに負けたからと仕事がレベルダウンするようでは組織にとっても当人にとってもマイナスだ。程ほどにしておく必要がある。

一番いいのはゲーム感覚で取り組むことだ。スポーツ競技をやっているつもりでフェアプレーで臨めば勝っても負けても「恨みっこなし」でいける。またこういう出世競争なら切磋琢磨できるから組織にとってもプラスに作用する。

終身雇用、年功序列の機能していた時代はどの企業も出世には一定のルールを設けて組織にマイナスにならないよう配慮をしていた。そもそも「年功序列」という言葉が組織にマイナスを及ぼさない出世ルールなのである。

何年間かを一定の業績で大過なく過ごせば一定の役職につける。その役職で年月をかけ実績を上げれば、またその上の役職へ・・・といったふうに、誰もが「どうすればどこまで出世できるか」がある程度は読めたのが年功序列の時代である。

ただ中には役職に強い拘りを持つ人間がいて様々な権謀術数(けんぼうじゅつすう)を弄して強引に出世を画策するからライバルも対抗上似たようなことを始める。

そこから役職を巡る見苦しい争いが生じる企業も少なくなかった。それが高じれば「お家騒動」となり企業にとっては大きな損失となる。安定した大企業ではそういう例がよく見られたものだが現在は実力主義の時代だから昔ほど出世競争は熾烈ではなくなっている。

だが人間は勝負とか競争が本質的には好きだ。オリンピックやワールドカップにも熱くなる。勝負の好きな人が人生の勝負として出世競争に参加することは決して悪いことではない。出世競争は双六のようにも思えるが面白いと思う人は大いにやればいい。ただしフェアプレーが原則だ。

それぞれの会社にある出世ルールに従ってフェアな競争をするのは端で見ていても決して悪い気分のものではない。頂上付近の役職を巡った争いになると泥仕合の様相を呈するが、それも人間ドラマの一齣(ひとこま)と考えれば結構楽しめる。

一方で中間管理職レベルになると今は逆に「下手に出世なんかしないほうがいい」という考え方の人も増えてきている。昔は「課長さん」「部長さん」はステータスだったが今は相場が下落した。責任だけ負わされるからだ。これは好ましい傾向といえる。もう役職にこだわる時代ではないのだ。

役職とは組織を運営するためのリーダーシステムであって本質的には名誉職のようなものだからだ。まして役職や地位を利用して威張ったり部下をいじめるようなのは論外である。ゆとり心をもって臨めば「出世してもよし、しなくてもよし」の気持ちになれる。もし出世競争をするならそういう気持ちでやってほしい。それならば会社勤めが楽しくなるし、いい仕事ができるようにもなる。

— posted by ラスター at 05:23 pm  

 

役に立たないことがどこまでできるか?

「いかに役に立たぬといっても、必ず何か一得はあるものだ」勝海舟の言葉である。海舟は明治維新の立役者の一人だが、名うての遊び人でもあった。この言葉には遊び心がのぞいている。遊びというのは、みんなが「遊び」と認めたことだけが遊びなのではない。一見つまらなく思えることにも遊べることがあるし、無駄なことや意味のないことにも、それなりの価値がある。遊び心とは、そういう見方のできる心なのである。

たとえば、危険な登山など興味のない人にとっては信じられない愚行に思えるかもしれない。だが、広い意味で「遊び」と考えれば納得がいく。遊びに理由はいらないのだ。何でも合理的に考えていくと、「無駄は省く」のが正しいと思えてくる。だが、無駄がなくなったら、進歩や成長、活力、楽しさからはどんどん離れていくだろう。

逆に、無駄の権化みたいなものを慈しみ遊んでいると、思いがけない恩恵を得られることがある。たとえば競走馬のハルウララの出現がそうだった。あの馬は一度も勝てず、フィーバーするまでに100敗以上していた。どこから見ても駄馬である。地方競馬だからよかったものの、中央競馬だったら、とっくの昔に消えていてもおかしくない。

その一度も勝てない馬が、妹馬、弟馬と対決するというだけで、「ハルウララ・チャレンジカップ」と銘打ったイベントが話題になった。

こういう発想は遊び心なくして出てこない。日本人もそういう遊びができるようになったのは喜ばしいことだ。
企業はいつも合理性が追求されている。だから何かで役に立たないことをやると排除されることが多い。「稼いでなんぼの世界だぞ!」といわれる。だが、そういう考え方に凝り固まっている企業はこれからジリ貧になっていく。大きな発展は期待できない企業なのだ。

また、企業経営者の中には「ムリ、ムダ、ムラをなくせ」と得々と語る人がいるが、これも程度問題だ。経営者からこういう言葉が出るようになったら、守りに入ったと見て間違いない。守りに入った企業は「あと、どれだけ持ちこたえられるか」だけの話である。

ノーベル賞を受賞したエサキダイオード(トンネルダイオード)の発明者江崎玲於奈(れおな)さんは、まだ東京通信工業を名乗っていた草創期のソニーに在籍し、そこで偉業を成し遂げた。当時のソニーのことを江崎さんは「組織された混沌」と評している。一応は会社だから組織されているが、「技術者は自由奔放に仕事を進め、社内は混沌としていた」というのだ。これはソニーにとって当たり前たった。なぜならソニーという会社の創立の目的は次のようなものだったからだ。

「会社創立ノ目的 一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度二発揮セシムベキ自由豁達(かつたつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」

この文言は「技術者は大いに遊んでください」と、いっているようなものだ。遊び心をもった技術者が大勢集まってきて、思い切り遊んだ結果生まれたのが、数々の画期的な製品だったのだ。あれだけの製品を出しだのだから、優秀な技術者の手で、次々製品が生まれたと思うのは間違いだ。まったく役立たずのガラクタの山の中に、いくつかの役立つ製品があったにすぎない。

それでも「ソニー」になれたのだ。ソニーの成功は「愉快なる理想工場の建設」にあった。近年のソニーがパッとしないのは、大きくなりすぎて草早創期の遊び心の精神が影を潜め、普通の会社になってしまったからだろう。個人も同じである。会社の役に立だない、自分の役にも立たない何かに、熱っぽく取り組む姿勢をもつことが大切である。どんなに忙しくてもだ。「そんなムダなことを・・・」と思う人は、すでに守りの姿勢に入っている。守りに入った人に、もう上がり目はない。

— posted by ラスター at 05:21 pm  

 

仕事は男の中身を作り、遊びは男の行間を広くする

面白いアンケート調査結果がある。人気女性誌の編集長に「看板モデルの条件とは何か」と聞いたところ、色々な答えの中に一つ共通項があった。それは「私生活こそが重要」という答えだった。圧倒的に外見の美しさに目がいくモデルの仕事も容姿だけでなく私生活という日に見えない要素が大きく関わっている。豊かで幸せな人生を送っていると容姿の向こうにそれが透けて見える。

容姿の奥にある人間的魅力が看板モデルには必要らしい。しかし人間的魅力が大切なのはモデルに限ったことではない。男だって仕事ができるだけで十分とはいえない。言葉で簡単に言い表せないような魅力的な部分をもっている人間でないと決して良い仕事は出来ないものだ。

「四十歳を過ぎたら男は自分の顔に責任をもて」とよくいわれる。だがこの年齢を過ぎた多くの男性は鏡で自分の顔を眺め「やばいなあ」と思うのではないだろうか。自分で見る限り少しも責任がもてるような立派な顔をしていないと感じられないか?

だがこの点は心配することはない。顔というのは自分で見るのと他人が見るのとでは印象がかなり違うからだ。何かに没頭している時は、みんないい顔をしているものだ。自分で鏡を見るときとは違っているのだ。ただ逆に人を憎んだり嫉妬したり良くない心埋状態の時は、その表情も必ず顔に出る。普通の人は中々気づかないが観察力の優れた人、修羅場を経験したような人はすぐにそれを見抜く。

誰でも年齢相応の「いい顔」になりたいと思っているだろう。しかし中々思い通りにはならない。そこで勧めたいのは「大いに遊んでみる」ことだ。ここで遊ぶというのは何も「飲む、打つ、買う」のような遊びだけではない。人生のあらゆる営みを遊び心をもって臨むのがいいということだ。

もちろん「飲む、打つ、買う」でもいい。若いときからこの三つの遊びに徹底して励んできた人を知っているが、彼は仕事も人並み以上にできるし、中々の人格者でもある。そして味のある「いい顔」をしている。ところがその人から遊びの中身の話を聞くと信じられないほど下らない低俗もいいところ。軽蔑したくなるような内容なのである。今目の前に居るその人の言動とどうしても一致しない。だがその人は確信を持ってこう言うのだ。

「私は遊びから多くのことを学んだ。もし遊んでいなかったら、今の私はない」

若者に人気の蛯原友里さんというモデルがいる。際立った美形ではないが他のモデルには無いそこはかとない魅力がある。若い女の子達は彼女の発散する魅力を敏感に感じ取っているのだろう。私も彼女に好感をもった。そして思ったのが「この子はどんな育ち方をしているのかな?」ということだった。まもなくその一端がわかった。彼女がインタビューでこう答えていたのを聞いたからだ。

「これからお父さん、お母さんに恩返しをしたいと思っています。だって私をここまで育ててくれた親なんですから、恩返しをするのは子として当たり前のことでしょう?」

今時の女の子が言うセリフではない。こういうことがスラスラ言える育ち方をしたことが他のモデルと一味違う好ましい個性を感じさせ、若い女の子達にウケている理由なのだろう。見えない私生活が容姿や人格形成に関わることは男女とも変わらないが、やはり男女で差があるように思う。男性の場合はいくら低俗な遊びをしてきても、それらをみんな栄養にして「いい顔」になれる。だが女性の場合はどうも男のようにはいかないようだ。

このことは女性誌の編集長の見方と奇妙に合致する。彼らが言う「看板モデルは私生活が重要」ということは、私生活が荒れてくれば、それが透けて見えてしまうことだ。そうなっては女性読者対象のモデルには適さなくなるからもう使えない。だが男は違うと思う。どんなに低俗な遊びを繰り返してきても、どんな醜い修羅場を経験しても、そこから何かを学ぶ姿勢さえ持っていれば最終的には男の成長の味方をするのだ。

男の遊ぶ才能とは遊びから何かを学ぶ才能のことと言っていいだろう。その代わりただ遊ぶだけでそこから何も学べないボンクラ男はどんな女性からも軽蔑されるような情けない男になって行く。だから男はいい顔になりたかったらもっと積極的に遊んでみること。そして遊びから学ぶことだ。

作家の永井荷風という人は一生女に明け暮れた遊び人だ。それも晩年は娼婦ばかりを相手にした。公序良俗派人間からは指弾されて当然の行状だが忘れてならないのは彼が不朽の文学作品を数多く遣したことだ。彼は遊びに遊んだが仕事もちゃんとやった。その作品は人間の哀しさ、美しさが行間に惨み出ているような作品ばかりである。彼は行間の作家であり行間の美を彼は遊びから学んだのだ。文学に限らない。男にとって遊びとは人生の行間を学ぶことなのだ。

— posted by ラスター at 05:17 pm